連載「私の恋文」第4回。
高校でもフォークソング同好会に入り,音楽中心の生活は続きました。
ヤマハのポピュラーソングコンテスト(ポプコン)やCBSソニーオーディションに応募もしました。
もちろん予選落ちですが。
志望校は東京芸術大学、なんていうとアホかと言われそうですが、本気で考えていました。
すぐに学力的にも才能的にも無理だとわかりましが。
それでも音楽大学を目指し厳しいレッスンは続きました。
そして高校2年生の時、志望校を決定するために、ピアノの先生のもとへと母と向かいました。
先生はピアノの能力は、例えば国立(クニタチ)音楽大学や武蔵野音楽大学などにも
行けそうだという話をしてくれました。
すると母は東京で生活させるだけの余裕はないと消極的な返事をしました。
さらに追い打ちをかけるように、先生は「声楽や楽典も勉強しなくてはいけません」と言いました。
そのためにはレッスン料が倍になることも。
母は「やっぱり貧乏人には無理よ。音楽は趣味にしなさい」と言って、さっさと帰ろうとしました。
私は「バイトをしてがんばるから」と言いましたが、聞く耳を持たず、私も仕方なく帰ることにしました。
その日から1週間部屋に閉じこもりました。
高校に行っても、帰りは友達のバイクの後ろに乗って夜遅くまで走ったり、
友人の家の納屋でバンド活動をしたりして現実を忘れようとしました。
俺から音楽を取ったら何が残るんだ!
そんなことを考えているとき、友人を探しに図書館に行ったときのこと。
入学以来片思いしていた美香ちゃんが図書委員の作業をしていました。
私が片思いをしていることを彼女は知っていましたが、友人としていつも
優しく接してくれました。
そんなこんなで、私の図書館通いが始まりました。
もちろん目当ては美香ちゃん。
しかし、美香ちゃんをじっと見ているわけにもいかず、
読書の習慣の無かった私は3日かけて読みました。
それから太宰の作品を次々と読んでいき、自分と太宰を重ねて考えるようになりました。
そうして私は厭世観を持つようになりました。
自分も40歳までは生きないだろうなとなんとなく思いました。
それから次第に三島由紀夫にも興味を持ち、大学に入ったら学生運動(右翼活動)をしようなどと
考えるようになりました。
そして、高校3年生の志望校決定時には自然と文学部志望になりました。
その後私は国語の教師になるわけですが、きっかけはそんな他愛もないことなのです。
本気で文学部に行こうと決めたのは高校3年生の2学期。
当然間に合うはずもなく、後に職場にもなる予備校で1年間浪人し、費用があまりかからない地元の公立に入学しました。
「恋文」の本題はこれから始まります。
~第3回おわり~
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